公私混同のすすめ
公私は分けなきゃいけないもの?
一般的には「公私混同」はいけないことだとされていますが、みなさんはいかがお考えでしょうか?
私は、USPT研究会で解離性障害に取り組むにつれて、なるべく公私は分けないほうがよいのではないかと思うようになりました。
日本人の常識では「本音」と「たてまえ」というのはあって当然だとされていますが、それを上手に使い分けるのは「解離のお仕事」なのかもしれません。解離の重度なものは多重人格となりますが、解離自体は心の機能のひとつなので、軽度なものはすべての人に起こるものといわれています。解離はトラウマを一時的に回避する役割もありますので、必ずしも悪いわけではありませんが、ふと「本音とたてまえを使い分ける必要がなかったらラクだな」と思いました。
落差を少なくすると楽になる
先日、遠近両用メガネを作ったのですが、レンズに厚みが出て重く、使うときの違和感もかなりのものでした。遠くの方もすごく良く見えて、近くのものも良く見えるという調整には、それなりに無理はともなうものだなと思いました。レンズの保証期間内でしたので、遠くのものが程々に見える程度に変えると、なんと見やすいこと! 違和感は激減して、とても使いやすくなりました。
調整前の方が、遠くは見えたはずなのですが、
中間生、マスターとのワーク
臨終の後、中間生(あの世・魂のふるさと)で人生を振り返りました。
太郎の人生では、人生にはどうにもならないこともあるのだと現実を受け入れて生きることはできたけれど、世の中のために何かパッとしたことをしたいと参加した戦争では何も活躍できないまま片脚を失っただけだったと思いました。
今の私の人生を見て太郎が感じることは、「それでいい。世の中のために何かをすればいい」という思いでした。また、太郎は私に「自分の足で歩け。足を地につけろ」というメッセージを残して消えていきました。
その後、私の全存在を見守り続けてくれているマスターから、「受け取りなさい」というメッセージをいただきました。太郎のメッセージをでしょうか? 自分の使命や、それをなすための能力をでしょうか? もしかしたら、多次元的にさまざまな意味を含んでいるのかもしれません。
また、「自分の足で歩けの意味はなんですか? 私は自分の足で歩いていませんか?」と問うと、マスターは「歩いているけれども、まだ歩いていない」とお答えになりました。
この前世体験からしばらく経ちますが、「自分の足で歩け」という言葉が心の中に残り続けています。
前世は私のシャドウ?
理想や夢を追い続ける私と、現実を受け入れて生きた太郎。お互いがお互いのシャドウであるかのようです。
シャドウというのは、ユングによれば「生きなかった人生」だとのこと。人は常に自分で決める、もしくは人の決定を受け入れるという形で、人生を選択し積み重ねていきますが、その時に自分が選択しなかった心がシャドウとして存在するという考えです。このシャドウは時折、潜在意識から浮かび上がり、私たちの意識に何かを語りかけることもあります。
太郎が生きなかった人生を私が生き、私が生きていない人生を太郎が示してくれた。その二つが統合された生き方を探すことが、自分の足で歩くために必要なのかもしれない。そう感じました。
前世療法はいつも私に深い気づきを与えてくれます。人生の選択に迷った時、毎日に何か足りないものがあると感じた時、今抱えている問題の深いところから受け止めたいと感じている時、前世はそのヒントとなることでしょう。それには、中間生での振り返りが大きく役立ちます。単にどこの誰だったかというのを確認するだけでなく、その人生で得たもの、足りなかったもの、この人生に望むものを知り、それを今の自分に役立てほしいと思います。