十寺智子のセルフ前世療法体験記
友人の催眠を使った作品作りに協力することになり、その中で今までに確認していない前世のイメージが出てきました。作品協力だったため、臨終の場面や中間生の記憶までは確認できなかったので、帰り道に前世の続きを自分で確認しながら帰宅しました。
途中、電車の乗り換えなどもありましたが、潜在意識状態が維持できれば、目を開けていても前世のイメージにはつながっていられるみたいです。でも、足元に注意しないと危ないのでみなさまにはおすすめできませんが、この日は余程続きが気になったみたいで、潜在意識が帰宅するまで待てずにどんどん続きを見せてくれた感じでした。
貧しい農家の息子、太郎
前世の名前は太郎。
生家は貧しい農家でした。 小高い場所に、居室二間と台所しかない東向きの家で、庭には大きな柿の木がありました。東西に縁側のある西陽が射す家で、南側に大きな窓はないようでしたが、そんな造りの家ってあるのでしょうかね?
兄弟はなく、母と祖母と3人暮らし。父は幼い頃に、庭の柿の木で首をくくって死んでしまいました。布団に横たえられた父の亡骸の横で、まだ5〜6歳だった太郎は母を悲しませ、自分を捨てた父に対して、悲しみよりもむしろ怒りを感じていました。そうして父への未練や愛情を切り離すことで、このつらい出来事を乗り越えたようでした。その後は何事もなかったかのように、はつらつとした元気のいい若者に育っていきました。
ある祭事のとき、巫女なのか人柱にされる少女なのか、神輿で担がれた美しい女に心を奪われます。でも、その女性は神に身を捧げる人なので手が届かない存在。夢を見るような気分でただ眺めているだけでした。 儚い夢のような気持ちとは別に、現実的な生活を受け入れて生きるのは当たり前のことだからと、馴染みの村娘と結婚し、子供をもうけます。
場面は変わって、頭には円錐形の笠のようなものを被り、筒そでに股引のような格好をしていました。どうも戦争に行くようでした。着ているものから推測すると時代は明治、大正期か? もっと古い時代からあった装束なのかどうかはわかりませんが、近世か近代である印象でした。戦争では大した活躍をすることもなく、大砲のようなもので吹き飛ばされて、片脚を失います。
しばらく経ったある日、化粧をして派手な着物を着た中年の女が現れ、誰かから預かった形見だからと、キセルを差し出します。白粉くさくておしゃべりな品のない女だなと思いました。前世に入るとものの見方や感じ方も、前世の自分のものになることあります。太郎は派手な女性、明るくおしゃべりな女性が苦手なようでした。太郎は「タバコは吸わねえからいらねえけどな」と思いながらもそのキセルを受け取りました。
大きくなった息子に柿の木を指差しながら、「昔、じいちゃんはあの木で首をくくって死んだんだ」と言うと、息子は「じいちゃんは死んでねえ」と笑います。息子は死んだ太郎の父親を知らないので、「じいちゃん」というのを生きている自分の曽祖父のことだと勘違いしたのだとわかったのですが、あえてそれ以上は説明しませんでした。
西陽を眺めながら、キセルをふかしていると、なんとなく死んだ父親の気持ちがわかるような気がし、「おれも老けたな」と思います。年齢は50歳代くらいでしょうか。人生の虚しさをふと感じた瞬間でした。 その後、妻が他界すると間もなく、太郎も亡くなりました。
中間生、マスターとのワーク
臨終の後、中間生(あの世・魂のふるさと)で人生を振り返りました。
太郎の人生では、人生にはどうにもならないこともあるのだと現実を受け入れて生きることはできたけれど、世の中のために何かパッとしたことをしたいと参加した戦争では何も活躍できないまま片脚を失っただけだったと思いました。
今の私の人生を見て太郎が感じることは、「それでいい。世の中のために何かをすればいい」という思いでした。また、太郎は私に「自分の足で歩け。足を地につけろ」というメッセージを残して消えていきました。
その後、私の全存在を見守り続けてくれているマスターから、「受け取りなさい」というメッセージをいただきました。太郎のメッセージをでしょうか? 自分の使命や、それをなすための能力をでしょうか? もしかしたら、多次元的にさまざまな意味を含んでいるのかもしれません。
また、「自分の足で歩けの意味はなんですか? 私は自分の足で歩いていませんか?」と問うと、マスターは「歩いているけれども、まだ歩いていない」とお答えになりました。
この前世体験からしばらく経ちますが、「自分の足で歩け」という言葉が心の中に残り続けています。
前世は私のシャドウ?
理想や夢を追い続ける私と、現実を受け入れて生きた太郎。お互いがお互いのシャドウであるかのようです。
シャドウというのは、ユングによれば「生きなかった人生」だとのこと。人は常に自分で決める、もしくは人の決定を受け入れるという形で、人生を選択し積み重ねていきますが、その時に自分が選択しなかった心がシャドウとして存在するという考えです。このシャドウは時折、潜在意識から浮かび上がり、私たちの意識に何かを語りかけることもあります。
太郎が生きなかった人生を私が生き、私が生きていない人生を太郎が示してくれた。その二つが統合された生き方を探すことが、自分の足で歩くために必要なのかもしれない。そう感じました。
前世療法はいつも私に深い気づきを与えてくれます。人生の選択に迷った時、毎日に何か足りないものがあると感じた時、今抱えている問題の深いところから受け止めたいと感じている時、前世はそのヒントとなることでしょう。それには、中間生での振り返りが大きく役立ちます。単にどこの誰だったかというのを確認するだけでなく、その人生で得たもの、足りなかったもの、この人生に望むものを知り、それを今の自分に役立てほしいと思います。